海神のいわれ

海神 この名は綿津見(わたつみ)、即ち海上の神である。大昔は海岸線が今の街道のすぐ南側まで来ていたといわれ、村民は漁をして生活を営んでいたので、海上安全と豊漁を祈るために海神を祀った。ここから海神という地名が起ったと考えられる。海神には、船橋海神村と西海神村とがあって、全く別の村であった。船橋海神村は単に海神村とも呼ばれ、九日市場村、五日市場村と共に三邑の総名が船橋とされる。これに対し、西海神村は旧葛飾に属していた。

 船橋海神村には入日(いりひ)神社があって、最初は海神を祀ったといわれる。この社は現在大きくはないが、地元の人々は、この社が船橋大神宮の元宮であると信じ誇りにしている。

 『江戸名所図会』(1834年(天保5年)〜1936年)巻七に
意富日(おほひ)神社初鎮座地 船橋駅舎の入口、海神村御代川氏某が地にあり。日本武尊此海上にして八寸鏡を得給ひ、伊勢大神宮の御正體として鎮座ありし舊跡なりといふ。今意富日神社の地より此所まで八町許あり。御代川氏昔は澪川に作る。澪は水の深き所を言える訓義にて、日本武尊を導きまゐらせ、此所の海の澪をしらせ奉り、神鏡を得せしめまゐらせたりし・・・・・。」
と示している。

 また文化7年(1810)の『葛飾誌略』に「日本武尊御上場舊跡 御代川源右衛門屋敷前とぞ。・・・・・此海神浦に御船を寄せられし事、日本紀、古事記にも載せざる事遺憾なるべし。然れども、其昔御船を助け奉りし民家、言ひ伝へて連綿と有之。・・・・・此海神村、昔は漁州にして・・・・・」
と記されている。

 今の船橋大神宮意富日((1))神社と呼ばれているが、醍醐天皇時代に朝廷で撰述の『延喜式』に、すでにこの社の名前が見られるところから、入日神社はかなり古くからあったのではないかと思われる。

 現在海神は、上組、中組、下組の三つに分けられている。昔九日市との境にある西向地蔵あたり、今でいう下組一帯を「さんや」と呼んでいるが、「さんや」は、山谷、散野、散家から来た地名とされ、原野、荒地でその後新しく開けた土地を指すものと考えられている。西向地蔵尊は現在中央に四尊建っているが、その中の右端の一体に、万治元年(1658)の年号とともに、「さんや村」の文字がかすかに認められる。

 これに対して、西海神村は、山野、印内、本郷、寺内、古作、二子、小栗原とともに、栗原八箇村と呼ばれていた。旧葛飾町本郷は実は栗原本郷で、古代栗原郷の中心地であった。平安朝の延長年中(923〜930)の源順撰述の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に、下総國葛飾郡栗原郷とあり、栗原郷はかなり古くから知られた地名である。『千葉県の地名』(平凡社刊)によれば、西海神が江戸時代に栗原海神とも呼ばれていたという。

 栗原郷一帯は、古くから村民が住むのに適した環境であったに違いない。山裾に位置し、日当りがよく、南面田野に恵まれ、飲料用の清水や燃料にする薪も豊富であった。私が子供の頃よく遊びに行った海神山一帯も、きれいな松林であった。

 西海神に阿須波(アスハ)の宮と呼ばれる龍神社があり、西海神の鎮守である。龍神は海神と同じであり、海上守護の神である。今の鳥居は東方に向っているが、私の幼少の頃は、田の中に南方海に面して、いくつか鳥居が立っていた。この龍王は八大龍王の一つで、鹹海(かんかい)に住む沙羯羅(シャカラ)龍王((2))といわれる。祭礼日になるとこの龍王が降りて来て雨を降らせ、雨の降った年は豊作になると、子供の頃に聞いたが、実際祭礼の日には雨がよく降る。私が住職をしている大覚院は、昔この神社の別当をしていたといわれ、山号を龍王山と称している。因みに当山は天正17年の開創と伝えている。

 寛延2年(1749)青山某の編纂による『葛飾記』に
 阿取坊大明神
同村((3))に有り。船橋より少し前、是龍神也。此故に所を海神村と云。入江の汀盧間に鳥居立てる所、此御神の鳥居也。此所海際、其間田有て少し隔つ。沙喝羅龍王、春日鹿嶋御同體也。・・・・・」
 また『江戸名所図会』巻七を見ると
 阿須波明神祠
西海神(ニシワダツミ)村にあり。禅宗((4))大覚院奉祀す。沙竭羅龍王を祀ると云う。故に此の地を海神(ワダツミ)とは称せりといへり。耕田と道路を隔てて海汀に向ひて華表(とりゐ)を建つる。」
と記されている。

 更に古くは『萬葉集』巻二十(4350)に、この阿須波の神について、
爾波奈加能阿須波乃可美爾古志波佐之
 阿例波伊波々牟加倍理久麻(弓)爾
          帳丁若麻続部諸人
庭中の阿須波((5))に小柴さし
 ()れは(いわ)はむ帰り()までに
とあるので、この龍神社も入日神社とともにかなり古くから存在していたものと思われる。

 なお、この龍神社の境内に小池があって、弘法大師の石芋や片葉(かたば)(あし)の伝説が代々語りつがれている。
 前述の『葛飾記』には
「石芋 西海神村の内、阿取坊明神の社の入口に有り。所に云傅ふるは、昔、弘法大師此所を日暮て通らせ給ふに、ある家に立寄り宿を((6))り給へば、嫗一人有けるが、宿をかし参らせず。依て、大師其側に植置ける芋を石に加持し給ふ。・・・」
と記述している。
 したがって、西海神という地名も、かなり古くからあったことが想像されるのであるが、残念ながら正確には分らない。

 私の手許にある『大覚院文書』の中に天保2年(1831)及び安政6年の「下総國葛飾郡西海神村塩浜検地帳」があり、やや遡って、寶歴8年(1758)「下総國葛飾郡西海神村新田検地帳」等数冊が所蔵されている。
 なお、この他境内地に
元禄の石塔「奉造立念佛講二世安楽之所
 元禄十六癸未天八月十五日
 西海神村結衆四十一人敬白」
と記された石塔が建っている。
そしてその隣に並んで同じような石に
「元禄十一年海神村同行女人三十六人」
とあることも付記しておきたい。

 いづれにしても、海神、西海神という地名がいつ頃から使われたのであろうか、どちらの地名が古いのであろうか、そしてまた、入日神社、龍神社のどちらが海神という地名の起源になっているのであろうか、それともその両方が起源に関っているのであろうか、疑問は深まるばかりである。

 私は歴史家でも郷土史家でもなく、ただ西海神に生を享け、七十年近くを西海神で過してきただけである。いざ海神のいわれをと尋ねられると、全く恥しい思いである。昭和三十年頃『船橋市史』の編者高橋源一郎先生が何度か拙寺を尋ねて来ていたので、もっとよく聞いておくべきだったと後悔している。本稿は『船橋市史』に負う所も多いが、なお不十分な点や誤り等あることを思い、皆さまのご叱正とご教示をお願いしたい。

(1)意富日 古は日を比に作る。天正以来台命によりて比を日に改めらるるといへり。『江戸名所図会』

(2)沙羯羅龍王は梵名にして又の名を娑伽羅と云ひ、鹹海(かんかい)と譯す。即ち鹹海に住む龍王にして其の國の名を以て名となす。『新纂佛像図鑑』(第一書房刊)

(3)同村とは西海神村のこと。

(4)現在大覚院は真言宗豊山派に所属。禅宗から真言宗に転派したものか、或いは真言宗の誤りか不明である。

(5)阿須波の神は、詩人・文芸評論家の荒川法勝氏によれば1.竃神、2.足場の義で人が踏み立つ地を守る神、3.竈に焚く薪を掌る神、4.内庭の守護神等の意に解されてきた。ここでは、旅の安全を祈る神として詠まれている。

(6)『葛飾誌略』では「大師芋一つと所望あり。」となっている。『船橋市史』でも「芋を一ついただきたい」と記されており、私もそのように伝え聞いている。

(大覚院第三十二世住職 堀 幸男)
『かつらぎ』20周年記念誌 平成10年5月 船橋葛城会 所載

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