石芋の物語 『葛飾誌略』
昔、弘法大師が諸国遍歴の時、川で芋を洗っている老婆に出逢いました。お腹をすかせたお大師さまは、その芋をぜひ一つ頂きたい、といったところ、老婆は貪慾な心の持ち主で、この芋は石芋で堅くて食えないといって与えませんでした。お大師さまは「それなら仕方がない」といって行き過ぎました。・・・が、後で老婆がその芋を煮て見ると、不思議なことに堅くてとても食べることができなくなっていました。そこで老婆はこれを川へ捨てたところ、その芋から年々青い葉を生じて絶えないのだといいます。
石芋の物語(もうひとつの話)『葛飾記』
昔、弘法大師が日暮になってきたので、ある家に立寄り宿を借りようとしたところ、老女が一人いましたが、宿を貸してくれませんでした。お大師さまはそばに植えてあった芋を石にしてしまいました。その後、その老女が芋を掘出して食べようとすると、石となった芋は食べることはできません。やがて芋は棄てることになり、腐ることなく年々葉が出てくるようになりました。
この石芋の物語は、全国にある共通の弘法大師伝説ですが、実際に昭和二十八、九年頃まではその芋が残っていたといいます。ここを旅行して実際にこの芋を見た方の記した『成田道の記』には以下のようにあります。
『成田道の記』(文政十三年)
海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。
余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり。
片葉の蘆 『葛飾記』
片葉の蘆というのは、葉が片方にだけある蘆で、昔は龍神社の傍の田の中に残っていたといいます。これも石芋と同じく弘法大師が杖で片葉を払ったから生じたのだと伝えています。
今も石に掲げた小池の傍には弘化四年正月別当大覚院二十五世実厳の建てた小碑があり、「弘法大師加持石芋片葉蘆之碑」と刻してあります。
参考
『船橋市史』 前篇 昭和34年3月 船橋市役所
『葛飾誌』 昭和63年10月 成瀬恒吉